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「社会環境と発達病理について述べよ。」

 発達病理とは、ある年齢段階にいるものに対して社会が要求する行動が常識的と考えられる枠から逸脱しており、しかもそうした行動特性が社会現象として認識される場合のことをいう。そして発達病理の背景には何らかの社会環境が関係している。

 ワロンは、個人と社会環境を切り離すことなく、身体、自我、社会性を内包するパーソナリティーとして、人間の発達をとらえようとした。

 つまり人間を一個の個体とみたピアジェは、人間の発達は安定へと向かうと説くが、ワロンのそれは不安定へと向かうと説く。その不安定さが社会から見て顕在化されたものが、発達病理といえる。

 戦時下であるとか、統制された社会環境の下では、精神的な病の発現率は低くなるという説もある。つまり、そのような状況では、自分自身でものを考え行動するという選択肢が狭まるので、社会全体は「異常」であっても個人々々の精神状態は「正常」であるという不可思議な事態となる。

 逆に、社会の自由化・多様化が進むと、それにつれ個人の発達の不安定さは増していき、社会に適合できず、「発達病理」状態にいるとみなされる人々が広く薄く蔓延していくことになる。

 発達病理の例として、自閉症・学習障害・無気力・非行・不登校・引きこもり・ニート・燃え尽き症候群・ピーターパン症候群・シンデレラ症候群・スチューデントアパシー・~症候群など、社会の一定の枠から外れてしまった人々に様々な病名(あるいはレッテル)を付け、それを社会問題と称し、最後には国家を挙げて対策費予算を計上するような事態にまで発展することになる。

 「発達病理」は、主として、身体的器官の生物学的基盤の異常から発現するものと、個人をとりまく社会的環境の異常との軋轢から発現するものに大別される。

 前者には、自閉症・学習障害、後者には、不登校・引きこもり・ニート等がある。むろん、それらの発達病理には、様々な要因が絡み合っており、一概に区別することはできない。

 自閉症とは、脳の中枢神経に何らかの先天的な問題がある発達障害であり、親の育て方や環境が原因ではないといわれている。また、多動症(ADHD)、知的障害は自閉症とは別の障害であるが、自閉症がこれらの障害を伴う場合もある。知的障害を伴わない自閉症の人(IQ70以上がめやす)を高機能自閉症、またはアスペルガー症候群とよぶ。その他、自閉症の人の1/4程度に、てんかん発作が合併することがある。思春期以降になってから発症する人が多いのが特徴である。 自閉症の代表的な行動パターンとして、視覚的な刺激に没頭しやすい、コミュニケーション障害、オウム返し、常同反復的行動(奇妙なくり返し行動)、こだわりが強く、習慣、環境などが変わるのが苦手、などがある。現時点では具体的な原因がわかっていないため根本的な治療法はないが、早期発見・早期療育によって社会的に自立する力を育てることは、可能である。

 また、学習障害とは、全米学習障害合同委員会の定義によると、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論する能力の習得と使用に著しい困難を示す様々な障害を総称する用語である。これらの障害は個人に内在するものであり、中枢神経系の機能障害であることが推定され、生涯を通して起こる可能性がある。自己調整行動、社会的認知、社会的相互交渉における諸問題が、学習障害と併存する可能性があるが、それ自体が学習障害を構成するものではない。学習障害は、感覚障害・精神遅滞・重度の情緒障害といった他の障害や、文化的な違い・不十分または不適切な教育といった外的な影響と一緒に生じる可能性もあるが、それらの状態や影響の結果ではない、とされている。

 現代日本の社会環境に起因する発達病理の例として、不登校・引きこもり・ニート等があるが、これらは、個人の内在的気質というよりは、国家の内在的気質、自由主義経済国家そのものの内部に存在している異常性が、個人の形を借りて発現したものといえる。

 自由主義という名のもとに、権利は濫用され、義務は放棄される。不登校・引きこもり・ニート等の発達病理の根底に共通して流れている思考は「他人まかせ」という思考である。「自分がニートになったのは、親のせい、学校のせい、社会のせい」「子どもがニートになったのは、子ども自身のせい、学校のせい、社会のせい」そうやって、本人も、家族も、教育機関も、行政までもが根本的な責任を他者に押し付けようとしている。

 子どもを取り巻く環境の中で、最大の影響力を持つのが家族である。家族の持つ役割として、生理的な安全の保障、情緒的な統合、基本的生活習慣の形成や価値観の伝達があげられる。現代の親達の多くは、自分達が核家族の中で育ってきた世代である。そのため、育児に対する不安や緊張が非常に強く、深刻な育児ノイローゼや虐待が増加している。かつて、子どもは祖父母や兄弟などに囲まれて生活する中で、多様性や生活の知恵、社会的耐性を得ていた。現在の少子化、核家族化は、社会の最小構成単位である親子関係を単純化させ、複雑な社会性の発達の機会を奪い、親の過剰な関与は子どもを過保護にし、子どもの自立を妨げるという結果にもつながる。このような家庭環境の変化は、発達環境としての役割の弱体化につながっている。親の過保護や無関心は、子ども達に絶えず孤独や虚しさを感じさせ、表面的な人間関係しか生み出せない結果をもたらしている。また、生活経験をも減少させ、生活の方法論を獲得する機会を失わせている。

 教育環境としての学校は子どもの人権に対する認識の低さだけでなく。教員が知らず知らずのうちに、子どもの人権を侵害している事もある。教員は、受験ばかりを意識した授業を一方的に行い、学歴尊重が社会で黙認されている。

 生徒達の主体的な行動や自由な選択は抑えられ、大人の価値観が強制されてしまっている。人間としての尊厳を傷つけられた子どもは、大人への反抗やストレスの発散として、時に学校を拒否したり、行き過ぎた問題行動を行うのである。

 地域社会は家庭・学校と並んで第三の発達の場と言われてきた。子どもにとって地域社会とは公と私の混ざり合った空間である。この空間で、子どもはいろいろな役割や立場を持った異年齢の混合集団の中での遊びを通じて、社会の中で生きていくためのルールを身につけ、多くの能力をごく自然に獲得していた。しかし、現代の子どもの遊びや生活は変化し、遊びに必要とされる時間・空間・仲間が制限されるようになった。テレビやコンピューターゲームといった遊び相手を獲得し、リアルな人間関係を拒否する事は、肉体的・精神的な痛みについての実感を混乱させていると思われる。傷ついた経験は、他者に対しての理解を容易にするが、架空の中での出来事は子ども達を残酷な動物に育ててしまう。最近の少年犯罪の悪質さはそれらが要因として関わっているという意見も多い。

 発達するということは、「よく学び、よく遊べ」という環境から実現される。これが自立すると、「よく学び、よく遊び、よく働け」となる。生物学的な要因や劣悪な環境によって発達病理が引き起こされるのは間違いないが、その要因によって個体が自分の生活にとって意味のある活動・経験が制限される事こそが、社会環境と発達の関係での恐ろしい点である。多くの社会経験が現代の発達病理を環境面から予防する最良の方法ではないかと考えられる。

 

参考文献 平山諭・鈴木隆男『発達心理学の基礎Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』ミネルヴァ書房 2005.山崎史郎『教育心理学 ルック・アラウンド』ブレーン出版 2005.

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